コーチの雑談

サッカーで地域と人を繋げたい

言葉のままに受け取らない

 

どうも

 

いつの日かの練習で子どもたちに

「言葉のままに受け取って行動しない」

と伝えた時があって

例えば練習で1つの提案として

「あるプレー」を見せたとする。

 

 

 

その時に「あるプレー」をするために

動き方を考えるんじゃなくて

「あるプレー」以外の選択を見つけるために

考えて動いてみる。

 

素直なのが彼らの良いところなのは

確かなんだけれども、

素直さが時に自分に牙を向けてくるときも

あるのがサッカーってもので。

 

だからこそ子どもたちには

言葉をそのまま受け取ってサッカーしてほしくないし

したところで見えない限界が見えてくる。

天井が見えてしまうと人はやる気を失う。

 

言葉のままに受け取って行動させてしまうのは

小学生年代でよく見かける。

 

例えば挨拶の場面だ。

 

「子どもは大きな声で元気よく挨拶しましょう」

と言う大人が多い。

 

元気なのはとても良いこと。

でも挨拶は人と人のコミュニケーションだ。

友人だろうが、初対面の人だろうが必ず挨拶はする。

 

お互い気持ちよくコミュニケーションをとるために

挨拶があるのであって、決して自分が気持ちよくなるために

挨拶があるのではない。

 

実際のところ大きな声で挨拶されるのが嫌だ

子どもらしいからいいだろって声も聞こえてきそうだけど

 

決して「その子らしさ」ではない。

 

大きな声を出して挨拶しなさいと

言われてきた子たちは大きくなると

ゴニョゴニョした声で挨拶するようになる。

 

学校の全校集会を思い出してほしい。

校長先生の挨拶の後、子どもたちも挨拶するけれど

学年が上がるにつれて声のボリュームは小さい。

むしろ6年生になると声すら出さない。

 

思春期を迎えて大きな声を出して

挨拶するのは嫌だという感情があるから。

 

もちろん子どもだし

挨拶の意味なんて幼心では考えられない。

「挨拶は大きな声でするもの」

と言ってしまうがために思春期を迎えると

挨拶をしなくなる。

 

そこにゆとり世代とか、さとり世代とかは

まったくと言っていいほど関係なくて。

 

僕ら大人側の人間が子どもを自分の好きなように

仕上げてしまうがために起きてしまう。

「その子らしさ」を無視してまで。

 

これは大人になってもあることなのだけれども、

よく「社会人として」とか「社会人なら」

といった言葉が飛び交う。

 

まぁ社会って「その人らしさ」とかは

どうでもいいことなのだろうけれども、

その「社会人」という言葉は

決して世の総論ではないし

その人の好きな「社会人」なだけである。

 

 

その子のことを信じることからスタートするのが教育であって、

何かを一方的に押し付けるのが教育ではない。

育成も同じ。

 

自分好みにカスタマイズ(ほぼ洗脳)してしまったら、

その子は一生「自分らしさ」なんてものには出会えない。

 

先に生きているものとして

最低限言わなきゃいけないことはある

でも、子どもたちには

「言葉のままに受け取らない」

を実践してもらって大いにはみ出してもらいたい。

 

 

「こうしなさい」なんてくそくらえ。

まずは疑うことから始めようぜ。

 

 

ではでは